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「五輪中止を求めます」
私は例えばゲーノー人有名人の不倫炎上も、
重箱の隅を突くような不適切発言指摘過去断罪も、
前後を切り取った言葉を抜き出して失言と騒ぐのも、
いやそんなのどーでもよくない??と思う方だけど、
今回の五輪開会式障碍者虐待差別容認音楽小山田某騒動は
さすがにあってはならないことだと心底思う。
小学校から高校まで障がいのある子をいじめつづけ
吐き気がするような鬼畜行為を雑誌のインタビューで
大人になってから嬉々として語っている。
いじめではなくれっきとした暴力、虐待、人権侵害、殺人未遂。
擁護してる人もいるが正義がどうとか言う次元以前の問題。
そんな人間をなぜパラリンピックに関わらせることができたのか、疑問しかない組織委員会。
私の小学校にもクラスに一人、少し知的障がいの男の子がいた。
(私は四回転校しているけど、当時はどの学校にもそんな子がいたと思う)
三年生の時、彼は時々男子にからかわれたり蹴られたりしていたのだけど
(女子は遠巻きに見ているだけ。私も・・)
次第にエスカレートしていき、
ある日とうとう泣きながら担任の先生に訴えた。
先生はクラス全員を集め
「いじめは卑怯なことだ!」と大声で怒鳴り、
普段は穏やかなおばさん先生の顔が、
その時だけはものすごく険しい表情で怖いくらいで、みんなシーンとして……。
親たちからは贔屓する先生、みたいに言われていたけど
大切なことをきちんと教えることのできる教師だった。(幸運なことに!)
大人の真剣な言葉、というのは子供にすっと伝わるもの。
見て見ぬふりも卑怯なこと・・。彼へのいじめはなくなった。
子供特有の残酷さってあるけれど、
でもそれ以上に素直さも持っている。
悪いことは悪いと教えるのは大人の努め。親の、教師の、社会の。
私は「純粋」という言葉をよく歌詞に使うけれど、
いつもここにその言葉は必要かと考える。
汚れきった中に残っている純粋の欠片、
みたいに使う場合の方が多いけど、その度に余計に
自分の中の、限りなく透明な純粋なものに憧れる気持ちを知る。
そんな時に必ず何故か、
私は小学校のいじめられていた彼を思い出す。
音楽の授業やお別れの時間のときに、
「今日の日はさようなら」という歌を皆で歌うのだけど、
彼は必ずその時に泣いてしまう。
先生がどうした、男はめそめそ泣くもんじゃないぞ、
と彼の肩を抱くと彼はこう言う。
「だって僕、この歌を聴くと悲しくなっちゃうんだもの」
彼のお母さんがよく学校に迎えにきていた。
色の白い、ふわっとした優しそうな女の人で、
いつも淡い花模様の服を着ていた。
愛おしそうに彼を見つめ、仲よさそうに帰っていく二人の後ろ姿を
私は何度も見送ったような気がする。
(何度もなはずはないと思うのだけど強く印象に残っている)
ああぁぁ今回、いやな話を知ってしまって
(相手から届いた、母親と書いた年賀状を雑誌に晒して嘲笑う、とか!)、
あの少年とお母さんを汚されたような気になって、
とてつもなく悲しくて胸が痛くなった。憤りを感じた。
私でさえこんな思いになるのだから
かつていじめにあっていた人も、親も、
思い出していやな気持ちになったことだろう。
障がいのある子を持つ親たちはもちろん、子供の親は皆。
ネットは知らなくていいことまで教えてくれる。
仕方ないけどせめてもうこれ以降
「イジメ」という言い方はいい加減やめるべき。
せめて「校内虐待行為」とか。
いじめで自殺する子があとを絶たないこの国。
どの学校側も「いじめはなかった」の一点張り。
そう、いじめではなく、殺人があったんです。
心の殺人は、立派な犯罪です。
いやもう次から次に出るわ出るわバカばっかりの五輪人材。恥まみれ。
私は五輪招致前からずっと反対だったので
「五輪中止を求めます」なんていまさらなんだけどね。
総理大臣「夢と希望、感動と勇気を与えてくれると確信している」
“ 感動”ってどういうことかわかってらっしゃる?
少なくとも他人に強要されるものではない。
国民をナメるのもいい加減にしてください。